弁天橋のうえ。
正面に江ノ島。右はるか先に、くっきりとした富士山。
無風状態。海はベタ凪。
いつもなら、沖から島の東をまわって打ちよせる波と、西側をとおって流れくる波が、直下でぶつかりあって、みどり色の海水があばれる。
なのに。
身をのりだして海面を見れば、今日にかぎって、とても穏やか。
立ちどまった母は、こんなことを口にした。
「トラとクロが生まれたのは、もう30年ちかく前ね。トラとクロのお母さんは、どうして我が家を選んだのかしら。きっと、裏の庭がよかったのかもしれない。まわりをかこまれてるから安心して子育てできるでしょ。いちどだけ、お母さんトラが戻ってきたんだって。トラとクロが元気でやってるか、確かめに来たんじゃないかって、おばあちゃんが言ってたのよ」
1983年。
東京ディズニーランドがオープンし、大韓航空機が撃墜され、中曽根首相が「不沈空母」と言い、初代ファミコンが発売され、『美味しんぼ』がスタートし、『ブッシュマン』のニカウさんが来日して、『金妻』と『ふぞろいの林檎たち』が流行し、『戦メリ』をおさえ『楢山節考』がカンヌを獲り、YMOが散開し、年末には達郎の『クリスマス・イブ』がリリース…という、日本の、比較的平和だった年。
そんな年の春。
横浜の下町。
縁の下から声がする。
みーみーみーみー。
幼き鳥造と、寅二郎は、耳をそばだてた。
仔猫たちの鳴き声だ。
親猫は、スマートな、頭のよさそうなキジトラ。
彼女は、どうしてわが家を選んだのか。
母が言うように、わが家の裏には、トタンの壁と隣家にかこまれた、庭ともいえないような空地があった。
縁の下から出て、そこで子どもを遊ばせれば安心だろう。たしかに。
そんな理由からか、よくわからないけれど。
ノラのキジトラは、縁もゆかりもないわが家の縁の下で、お産したのだった。
仔猫は、4匹。
親猫とそっくりな斑のトラが2匹、ちょっと濃い目のこげ茶のトラが1匹、鼻のあたりと足先に白が混じる黒猫が1匹。
家族が好奇の目で見つめると、親猫が目を光らせ、触れさせなかった。
そっと、牛乳にひたした食パンをおいてやると、親猫が見守るなか、美味しそうに仔猫たちは食べた。
仔猫たちがあらかた食べおえたあと、親猫も残った牛乳パンを口にした。
焼き魚や、かまぼこ、とかではなく、牛乳にひたしたパン、というのがとても懐かしい。
パンを牛乳にひたして猫にやる。それは、祖母のセンスだ。
もしくは、祖母に影響を受けた、母のセンス。
母は、冷ご飯と味噌汁と鰹節を鍋で煮た「猫まんま」もあげたことがある、と言った。
きっと単純に、猫といえば「猫まんま」だろうと、思いついたのかもしれない。
鰹節をくわえて煮る、というひと手間がかかっているのが、なんとなくおかしい。
5匹は、わが家の裏の空地をかけまわった。
5匹は、僕たちを楽しませた。
仔猫4匹が成長すると、母猫は突然消えた。
仔猫たちも、後を追うように、いなくなった。
猫のいなくなった縁の下をのぞいたら、業務用冷凍食品の巨大なビニール袋が出てきた。
袋にパン粉がついていた。きっと、アジフライとか牡蠣フライとか、揚げるだけで食べられる業務用の冷凍食品だろう。
仔猫たちに食べさせようと、親猫が運び込んだものかも。
家の近所に冷凍食品業者があったから、そこから引きずってきたのだろうと想像できたが、とても重かったろう。親猫の労力を考えると、ちょっと涙ぐましい気分になった。
なのに、ねぎらってやる相手が、もういない。
とりのこされたような気分を味わった家族はみな、ひそかに肩を落とした。
ところが数日後。
4匹の仔猫のうち、親にそっくりのトラと、クロがコンビで戻ってきたのだ。
親離れし、いろいろほかを当たってはみたが、結局、生まれ故郷が一番と結論したのか。
2匹は、どうやら、居つくつもりらしい。
居つくつもり、なんて、聞いたわけじゃないから、本当はわからないのだが、トラクロコンビの顔を見た鳥造&寅二郎は、なんとなくそう思っていた。
父も母も祖母も、同じことを口にした。
あるいは、この猫たちはわが家に居つこうと思っているに違いない、と家族全員で思い込むことで、なし崩しに飼ってしまおう、と心の底ではみな思っていたのかも。
その証拠に、猫がもどってくると、みなはしゃいだ。
またエサを与えはじめた。
そして、僕たちは、トラとクロを、家に入れてしまったのだった。
オスのクロは警戒心が強く、なかなか入ってこなかった。
一方、メスのトラはエサでつると簡単に入ってきた。
それを見たクロは、すぐにあとについて入ってきた。
祖母によれば、親猫が、一度だけ戻ってきたことがあるらしい。
子どもたちの様子を、見にきたのだろうか。
そのときどんなだったか、確かめてみたいが、祖母はもういない。
母猫が産んだ4匹のうち、わが家に居ついたトラとクロ。のちに、このトラも我が家でお産をすることになる。
生まれたのが、サビ猫のチャーだった。
つづく。